さて学位(医学博士)についてですが by A

B先生の問題提起を受けて、学位について意見を書いてみたいと思います。私は学位を戴いています。開業するまで大学等に長く居たため、学位を取らない訳にはいきませんでした。大学教官として勤務するには学位があるに越したことはありません。

B先生が言われますとおり、眼科の研究には二種類あります。1の基礎研究と2の臨床研究です。しかし、私の認識では、研究とは1のことであり、2は臨床家の余技といいますか、当たり前すぎて評価の対象にはなりませんでした。

ということで、卒業後1〜2年の頃から、「何とかして研究実績をあげ、他人を出し抜き、大学医局で地位を築かなければ(⌒_⌒; 」という切迫感が自然に芽生えてきた訳です。若気の至りというやつです。

私の同級生は5名いました。そのうちの3名は女の先生で、コンペティターではありません。あと一人の方は、外勤の病院勤めを終えて卒後3年目に基礎の教室に入るという反則技を使ってきました。基礎の教室ならば研究実績があがるのはあたりまえ。インパクトファクターの高い論文を量産できます。同じ頃、基礎の教室に10年近く居た先生が、眼科に入局してこられました。この先生は、反則氏をすら大きく上回る大反則と言えます。もちろん、お二人とも、立派に教授先生になっておられます。

私はといえば、大学では臨床が忙しい部門におりました関係で、手術をするには事欠きませんでしたが、残念なことに、研究実績というものがいつまでたっても出来ません。これではならじと、卒後6年目頃から、臨床活動はほどほどに、研究室にこもってごそごそとPhDの先生の手伝いをする日々が続きました。

そして、数年後、その研究実績を元に、海外留学を果たしました。学位はその前に戴きました。「留学の時、学位がないと困る」というのが理由で、お願いしました。当時、教室員は大体その流れでした。今となってみれば、留学と学位は全く関係ないことがわかりましたが・・・。海外では、研究一本に打ち込めましたので、それなりにペーパーも書きました。

ただ、海外でふと我に返って考えてみると、仕事の内容が全く眼科医らしからぬことになっており、同僚や研究のライバルもすべてPhDであり、このまま続けるとえらいことになるという感じがいたしました。

比較するのもなんですが、ips細胞で有名な山中先生はもと整形外科におられたお医者さんです。臨床の教室出身者の医師が、基礎研究を続けるうちに、国内外の基礎の研究者になる例は意外と多いものです。私が山中先生になれたはずもないとはいえ、研究を続けることは眼科からますます遠ざかるという風に感じたのです。

1の研究は来週行われる日眼などで重宝されている訳ですが、深めれば深めるほど眼科学から離れていくという、矛盾をかかえています。眼科学教室が基礎研究を重視するということは、一方で臨床を軽視するということになりかねず、非常にむつかしい問題を孕んでいます。

その一方で、日本眼科学会は「眼科指導医」という、専門医の上に位置する資格に医学博士号の取得を義務付けています。1の研究で学位を取るということは、少なくとも数年間、あるいはそれ以上、更に大反則の場合10年以上も、臨床を離れるということであり、学位とは、いわば、臨床を離れたことの証明書な訳です。その資格が眼科の指導医に必要というのは、一体どんな理由によるのでしょうか。

学位の本当の意味について書く余裕がなくなりました。これを書くと、福島先生のような辛口の意見になってしまいますが、次回のお楽しみといたしましょう。

最後に一言。私がいただいた学位はいわゆる論文博士といって、大学院に入らずにいただいたものです。