戦後日本の病根―事大主義 その(1) byA

長いこと戯言を書いていません。事情により数週間お仕事を休み、ゆっくりしておりました。毎日のように手術をしていますと、気分が高揚するのか、手術のことについて書きたくなります。それがこのブログのようなものができる原因です。

しかし、手術をお休みすると、とても手術について書く気にはなりません。それだけ、手術というのはアドレナリンや脳活性化ホルモンを分泌させるのでしょうね。それでやみつきになってしまうという側面も確かにあります。

その代わりと言ってはなんですが、まあ、いろんな本を読みました。おりしも参議院選挙が始まっており、民主党が支持率を乱高下させております。今回の結果がどうなるかはともかく、読書を通じて戦後日本の問題点がちょっとはっきりした感がありますので、そのことについて独りよがりではありますが、書いてみたいと思います。

キーワードは「事大主義」。ウィキペディアによりますと、語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)える)です。

しかし、一般的に事大主義という時には、李氏朝鮮(1392〜1910)時代、李朝の権力者、両班(ヤンバン、貴族)階級がとった信条とされております。李氏朝鮮の開祖李成桂(イ ソンゲ)は、高麗末期の武官でしたが、高麗が時の中国大陸の支配者明に戦いを挑んだ際、あろうことか、敵を攻めるのではなく、明に寝返って高麗を滅ぼし、自らが朝鮮の王となりました。

以後、李氏朝鮮は、中国の覇者の「属国」と自ら宣言し、卑下しつつ領土をあてがわれるという方針を貫きました。これが事大主義です。

ひとことで言えば、「プライドを捨てて実利を得ること」とでもなるでしょう。その特長は、

怠惰と不労働所得観念

開拓精神の欠如

企業心の不足

悪性利己主義

健全な批判精神の欠如

党派意識

特権・エリート集団意識

となっています(ウィキペディアより)。

李氏朝鮮時代、両班階級は党派争いを繰り返し、風流を尊び、労働を忌み、民衆を搾取しました。事大主義により、常に明(後に清)にこびへつらい、軍事的、政治的、また、経済的にも属国として分をわきまえ、決して独立することなく政権を維持しました。なんと、500年以上も続き、朝鮮歴史上もっとも長い王朝となりました。

中国に媚びへつらうのと同時に、日本に対しては蔑視の対象としておりました。以下江戸時代に書かれた「朝鮮通信使」の記録です。びっくりしますよ。(ウィキペディアより引用)

1764年1月22日 大阪

100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。 凄い。大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。 都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。 信じられない。 中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。 世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。 北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。 穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。 そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。 嘆かわしく、恨めしい。

1764年1月28日 京都

街の繁栄では大阪には及ばない。 しかし倭王天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。 この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。悔しい。「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。 悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。

(引用終わり)

日本で言えば、室町〜安土桃山〜江戸〜明治と激変した時代、単一王朝が続いていたのですから、ある意味すごいことです。

しかし、これが、近代の欧米列強による帝国主義の時代、朝鮮半島が悲劇の舞台となる原因になってしまいました。否、朝鮮半島にとどまらず、日本、あるいは中国(清)にとっても悲劇の幕開けとなったのですが、その遠因は、朝鮮王朝にあるといっても言い過ぎではありません。

日清戦争(1894、明治27年)は、日本と異なり独立できないし、しようともしない李氏朝鮮をめぐっての、日本と清国との戦争でした。日本にしてみれば、朝鮮半島が清国あるいはロシアの支配下となれば、本土の安全も脅かされかねません。朝鮮の独立、あるいは朝鮮への影響力行使が日本の安全のために必要だったのです。

日露戦争(1904、明治37年)も同じく、朝鮮半島をめぐる日本とロシアの駆け引きということでした。いつまでたっても煮え切らない事大主義の李氏朝鮮王朝。特に、最後の王高宗は政治に無関心の朴念仁で、王妃閔妃(ミンピ)の言いなりとなり、閔妃が事大主義を続けたため、日本当局に暗殺されるという悲劇も生まれました(1895)。

その後、1910年に「日韓併合」ということになってしまいました。結局は、李氏朝鮮の事大主義が招いた災いだったと考えざるを得ません。