戦後日本の病根―事大主義 その(2) by A

昨日書きましたように、事大主義とは大きな相手に対してプライドを捨ててへりくだり、実利を得ようとするもので、その副作用として、怠惰と不労働所得観念、開拓精神の欠如、企業心の不足、悪性利己主義、健全な批判精神の欠如、党派意識、特権・エリート集団意識が現れます。

李氏朝鮮でもっとも顕著に表れた事大主義ですが、皆様お気づきのように、これは李氏朝鮮に限ったことではなく、世界中どこでもみられます。そして、戦後の日本では特に顕著になってしまいました。

明治維新を経験して30年くらいは、独立の覇気に富んだ人材がまだ多く残っていました。陸奥宗光は中でも有名です。

李氏朝鮮が自主独立を放棄していたころ、独立を促す対策を立てていたのが、他ならぬ宗光でした。この人は坂本竜馬と同世代の志士であり、明治時代を生き残って外務大臣などを務めました。幕末以来の不平等条約の撤廃に力をつくしました。

清が朝鮮に出兵したと見るや、対抗して派兵し、朝鮮王宮を占拠し、親日政権を樹立いたしました(朝鮮国内的には失敗でしたが)。清がひるまないと見るや日清戦争を企て、戦後、有名な下関条約の締結に貢献いたしました。

相手方の全権大使、李鴻章が日本人に負傷させられるという事件が起こりました。宗光はいち早く天皇陛下にお願いしてお見舞いしていただき、交渉が難航するのを防ぎました。下関条約の内容を載せておきます(ウィキペディアより引用)。

清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)

清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。( 第二条、第三条)

清国は、賠償金2億テール(約3億円)を日本に支払う。(第四条)

割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)

清国は、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)

日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)

清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)

清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)

条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)

条約は大日本国皇帝陛下および大清国皇帝陛下が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)

(引用終わり)

どうです?すごいですね。戦後世代の日本人には想像もできないような外交力です。下関条約の第一条だけでも、現代韓国の人々に知っていただきたいものです。当時の朝鮮では「要らぬ内政干渉」と受け取られたようですが。

しかし、残念なことに、この時すでに宗光は結核を患っており、日清戦争の3年後に亡くなってしまいました。53歳でした。

宗光がもしもっと長生きしていたら、三国干渉(下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国ロシア帝国の3国が1895年4月23日に行った日本に対する勧告)や日露戦争すらなかったかもしれません。