お伊勢参り(続き) by B

現在の日本は、本当に課題が山積みでございます。東アジア情勢の不安定さに関しては、前に述べましたが中大兄皇子と日本〜オペが必要ではないか?〜 by B - 眼科手術開業医の戯言、財政面でも逼迫しておりますのはご存じの通りでございます。

先日のサミット直後、国際通貨基金は我が国に対し「2012年に消費税を15%に引き上げるべし」等の財政健全化の工程案を提言いたしました。この我が国のGDPに占める国債等の公的債務残高は破産したギリシャ以上でございます。

この日本の借金問題に関しては、「ギリシャと違って(ギリシャは70%外国人保有)、国債はほとんど日本国民が購入しているようなもんだから、実際はそんなに恐れることはない。これは消費税増税が悲願である財務省の陰謀だ!」と主張する人も多いですね。国民はえてして、易きに流れやすいものですから、そのような主張を聞くと、「な〜んだ。まだ、大丈夫だ!増税反対!」となってしまいます。

しかし、その国債を中国がどんどん買占め始めたらどうなるのでしょうか?そうなれば、米国だけではなく、中国の顔色も気にしながら生きていかねばなりません。往年の(日本を含む)列強に囲まれて苦しい国家運営を迫られた朝鮮民族のような悲哀を味あわねばならぬやも知れません。そうなってからでは遅いですね。

そもそも、他国から「私たちに迷惑かかるかも知れないから、頼むしバラマキをやめて、ちゃんと借金返してください。」と指示されること自体が非常に恥ずかしいことです。

公務員を含む無駄削減が第一なのは、理屈ではわかりますが、実際のところ、本当に無駄がなくなることなんて100年かかってもありません。真に日本の安寧を求めるならば、「無駄削減が済んだ後に増税」というような耳障りの良い曲学阿世論に振り回されてはいけないとBは思います。「無駄削減と財政再建増税)が同時」でなければ、なりませぬ。

戦後60年が経過し、我々日本人は、十分に楽しんできたのではないでしょうか?正直、個人的には、これ以上税金を取られるのは嫌で嫌でたまりませんが、お国の為ならば我慢します。何事にも手続きに時間がかかる民主主義ですので、「増税をする」為には、よほど国民的人気の高い政治家を首相とし、強力な内閣で推し進めねばラチがあきませぬ。日本人が一つにならねばなりませんね。

その為には、過去の日本人の成功経験に照らし合わせると、畏れ多いのですが、「天皇陛下」の権威におすがりするしかないような気がしてまいりました。

もっち論、天皇陛下の政治利用は絶対やってはいけません。良く言われるように、日本は「権威=天皇陛下」と「権力=幕府、今なら内閣」が分離していたからこそ、成り立ってきた国でございます。この国難に際して、「天皇の政治利用」ではなく「天皇の権威の政治利用」が明治維新以来、久々に必要になってまいりました。

天皇の権威の政治利用」とは、すなわち、「憲法改正」を成し遂げることでございます。このブログの読者の方々は「またこの話かいな・・」と辟易されているかも知れませんが、まぁ聞いてくださいませ。

憲法を改正し、新日本国憲法公布を天皇陛下が宣言し、国民が大祝賀会を施行する。これだけで、日本人は一つになります。当然、「天皇は国の象徴であり・・」という意味のわからぬ文を「天皇は日本国の元首である」という文章に改訂することは言うまでもありません。

という訳で、Bの妄想といたしましては、

平成22年〜23年 民主党代表選で大荒れ→民主党保守派・自民党たちあがれ日本の大連立、憲法改正の下地を作る
平成24年     議員定数削減・公務員制度改革・消費税増税憲法改正国民投票施行
平成25年     伊勢神宮式年遷宮に合わせて新憲法公布、天皇元首、自衛隊の呼称を辞め、自衛軍

最後に、ちょうど20年前に、ある民族派の人物が書いた檄文を載せます。

昭和天皇崩御され、平成の新しい御代を迎えたこの二年の間に、かくも激しい動乱の世を迎えるとは誰が想像したであろうか。明治・大正・昭和の御代替りも、いずれ劣らぬ国家的危機の渦中にあったが、世紀末を間近にひかえた現今は、これまでにない不透明な不安感が世界中を覆い尽している。

東欧諸国の民主化ソ連共産党独裁制の放棄、天安門の流血、ベルリンの壁の崩壊と統一ドイツの誕生・・・いずれも革命の世紀と呼ばれた二十世紀の黄昏を象徴する事件の数々であるが、はたしてそれは”歴史の終焉”の第一歩と言いうるであろうか。

否、そうではない。新たなる混沌(カオス)の始まりにすぎない。民族的葛藤、宗教的対立、ますます経済格差の拡がる南北問題、人類の死命を制する地球の環境汚染、何一つ解決の目途すらたっていないからだ。

一方、イデオロギーとしてのマルキシズムの敗北が決定的だとはいえ、だからといってアメリカン・デモクラシーの勝利を手放しで喜ぶほど愚かなことはない。マルキシズムは悪魔の経典かもしれないが、アメリカン・デモクラシーも光ばかりではない。拭い切れない影を背負っている。自由と平等の理想を高々と掲げた「独立宣言」が先住民インディアンを「蛮族」と呼んだことを決して忘れてはなるまい。ハワイ王国の征服とバルト三国の簒奪はどこが違うのか。ソンミ村とカチンの森はいずれが残虐であろうか・・・。

しかり、両者はキリスト教という一神教の世界が生んだ価値一元主義の異腹の兄弟である。自己の有する思想や政治・経済体制を絶対正しいものとして複数の価値を根底において認めようとせず、それを他者に強制するという点で軌を一にしていると言わねばならない。

折から勃発した湾岸戦争の背景には、国連の機能回復の名分のもと、アメリカン・デモクラシーの主導で国際秩序を再構築しようとするアメリカの秘めたる野望が見え隠れしている。時代遅れのいささか乱暴な手法だが、サダム・フセインの行動には、この趨勢に対する無意識の異議申立て(プロテスト)という面があるかもしれぬ。

この世界的危機に日本はどう対処しようとしているのか。

それは憲法解釈をめぐる退屈な教理問答(カテキズム)の果てに流産した国連平和協力法が見事に示している。アメリカの要請に従って、アメリカが押し付けた憲法の枠を破ることが、四十五年続いたアメリカ五十一番目の州を脱する契機となるという逆説(パラドックス)・・・この絶好の機会を日本は半ば失ってしまった。

しかし、忌憚なく言えば、大多数の日本人にとって憲法は’だし’にすぎない。ただ、カネとモノのみに拝跪し、「目に見えない崇高な価値に対する献身」という人間だけが持っている美徳など薬にもしたくないというのが本音である。古くは隣国の高官から「東洋の君主国」と呼ばれ、近くは泰西の賢人から「彼らは貧乏だが、しかし高貴だ」と称えられた日本人はかくも醜悪な豚の集団と化してしまった。

<われわれは、戦後の日本が経済繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎの偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善のみに捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見てゐなければならなかった>

二十年前の三島由紀夫の慨きは寸毫も修正の必要はない。カネを出すだけで、汗も血も流さぬ日本は、ゲルマンの傭兵によって亡んだローマ帝国の道を確実に歩んでいる。かつて我らの父祖たちが切なる祈りを込めて叫んだ「神州不滅」は風前の灯となりつつあるのだ。

起て、心ある日本人よ。祖国の危難を救うために!
それは「日本への回帰」をおいてほかはない。
それには何よりもまず日本の国体を心底から体認することである。

自然と人間が、君主と国民が対立することなく一体・調和する国。

複数の神、複数の価値の共存を認める多元主義の国。

高栄養価・高生産性・連作可能な稲を選択し、伐採に終わらず植林を欠かさない生命再生(リサイクル)の国。

海外文明を固有の文化で摂取・同化し、最先端の技術文明と太古から伝わる信仰が矛盾なく同居する温故知新の国。

これが日本だ。

「和魂漢才」あるいは「和魂洋才」と先哲は語ったが、この喪魂の時代に国体を貫く一条の糸、大和魂を復活させることである。

父祖たちの成功と失敗、栄光と屈辱、希望と絶望、喜悦・苦悩・悲哀を共に分かち合って歴史の継承を果すことである。

憂国の戦闘者よ、共に戦列を組み、祖国の栄光を恢弘し、子孫に輝かしい未来を与えるために結集せよ!

この檄文の内容、今聞いても身に沁みる内容です。つまり、我々はこの二十年間、またもや安逸を貪り続けてきたわけでございます。

もう我々が「カネとモノのみ拝跪」するのはそろそろ、良いんじゃないでしょうか?

この檄文の書き手は、いわゆる「右翼」のレッテルを貼られ、朝日新聞をはじめとする戦後リベラルマスコミからは蛇蝎のように嫌われ言論を葬り続けられた存在でございます(確かに、最後の方では興奮されてきたのか語調が激しくなってまいりましたが)。憲法改正時に記者クラブ制度、電波利権などのマスコミ改革も必須ですね。

非常に長くなって申し訳ございません。Bは伊勢神宮にお参りして、以上のようなことを考えたわけでございます。勿論、神棚は板葺の中では最大のものを買ってまいりました!榊を枯れさせぬよう、気をつけます。